| 躾について |
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こんにちは慈厳です。
『しつけ』とは身を美しくと書きますが、よく出来ていると思いませんか?
身を美しくと書きますと何故か身体・服装だけのように感じるのですが、そうではありません。
躾というものは内面の磨かれた結果も、磨かれなかった結果も、外に自然に現れると解釈すべきでしょうし、外面も成人なら成人らしく、青少年ならそれらしく努めることにより、内面を磨くことになるのだと思います。
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『しつけ』とは身を美しくと書きますが、よく出来ていると思いませんか?
身を美しくと書きますと何故か身体・服装だけのように感じるのですが、そうではありません。
躾というものは内面の磨かれた結果も、磨かれなかった結果も、外に自然に現れると解釈すべきでしょうし、外面も成人なら成人らしく、青少年ならそれらしく努めることにより、内面を磨くことになるのだと思います。
←ポチッとお願いします。ところで皆さん、躾という教えはどのくらいの年齢で身につくのでしょうか、又されるべきでしょうか?
人が躾を受ける(躾けられる)のは両親・祖父母・親族・学校の先生を始め、クラブの先輩や同好会の先輩等さまざまな人と場合があります。
(昭和30年代の終わり頃までは自分の子供ばかりでなく、地域の子供として大人達は是は是、非は非としてどこの子供でも躾をしたり、褒めたりしてそれが普通だった)
同好会やクラブ活動ならその中の世界だけのことが大部分なのですが、両親や学校の先生方からの躾は一生を通じての影響をうけることがあるようです。
(学校の先生については最近は影響力を行使する教育は父兄の問題もあってやろうとしても出来ないとか聞いています)
両親や心ある周囲は子供達に
「車に気をつけなさい」「忘れ物をしないように」「外から帰ったときや食事の前に手を洗いなさい」
「宿題を早く終わらせなさい」「知らない人には注意」「人のものを盗むな」「テレビは何m離れて」「ゲームは一日何時間」とか家の中、外に限らず様々な躾をします。
更に、両親は「この子は大きくなったら、こういう人になってほしい」あるいは「この職業に就いてほしい」などの希望があってそのための躾も加わります。
そのような躾が一つづつ身について成長していくにつれて更に世界が広がり、身についた躾と能力が本人の評価に繋がっていくのでしょう。
『躾とは知らないから教える。知っていても教える。繰り返し身につくまで教える』ことです。
本人が世の中に受け入れられるために。
本人のために。
出来るだけ早くから。
昔は個々の家にその家独自の方針、それによっての教えである庭訓(ていきん)がありましたが、最近では「子供はのびのびと もっと大きくなってから」「自主性を重んじて」等という親が少なからず居ます。このような親は最小限「世間に通用する人間を育てる」という義務と大切なわが子に対する子育ての権利を放棄しているといっても過言ではありません。
教えられなくて社会のルールや躾が身につくのでしょうか?自主性なんてチャンチャラおかしい。
「学校が悪い。仲間に引きづられただけだ。うちの子に限って」などと親としての責任を認めようとしません。
子供を育てよい躾をするのは親の『義務』ではなく『権利』と考えたらいかがでしょう。
大切な、大切な我が子のために世の中に受け入れられて、より大きく成長、成功するために知らないことを教え、良いところを伸ばす親の指導が『躾』だと思います。
言い換えれば『躾』とは親の『おしつけ』だということができます。
親の我が子に対する「無償の愛」です。
年少の時から躾の教育をされたほうが身につくのも早いし、人格の形成に役立つようです。
躾についてアラブの諺(ことわざ)に次のような言葉があるそうです。
『子供を躾けるのは堅い岩を削るようなもの、大人を躾けるのは海に荒波を起こすようなもの』
もちろん子育ては「のびのび」も大切です。自主性も段階を踏んで大切です。しかし、今の時代は他家の子供に注意することも誉めることも出来ない時代です。
躾を与えることが出来るのは幼少時の吾が子に対してだけです。その権利と機会を放棄してどうするのですかと私は思います。
子供が成長途中の方、予定のある方、自信を持って「親をおしつけ」ましょう。
そして親の権利と義務を行使しましょう。
そして子育ては「一つ叱って三つ誉め」です。
子供が自分でよい判断、行動をするようになった時、大いに自主性を尊重しましょう。
これは私の感じた意見です。他の意見・考えを妨げるものではありません。
伊豆高原の一隅にて
慈厳合掌
人が躾を受ける(躾けられる)のは両親・祖父母・親族・学校の先生を始め、クラブの先輩や同好会の先輩等さまざまな人と場合があります。
(昭和30年代の終わり頃までは自分の子供ばかりでなく、地域の子供として大人達は是は是、非は非としてどこの子供でも躾をしたり、褒めたりしてそれが普通だった)
同好会やクラブ活動ならその中の世界だけのことが大部分なのですが、両親や学校の先生方からの躾は一生を通じての影響をうけることがあるようです。
(学校の先生については最近は影響力を行使する教育は父兄の問題もあってやろうとしても出来ないとか聞いています)
両親や心ある周囲は子供達に
「車に気をつけなさい」「忘れ物をしないように」「外から帰ったときや食事の前に手を洗いなさい」
「宿題を早く終わらせなさい」「知らない人には注意」「人のものを盗むな」「テレビは何m離れて」「ゲームは一日何時間」とか家の中、外に限らず様々な躾をします。
更に、両親は「この子は大きくなったら、こういう人になってほしい」あるいは「この職業に就いてほしい」などの希望があってそのための躾も加わります。
そのような躾が一つづつ身について成長していくにつれて更に世界が広がり、身についた躾と能力が本人の評価に繋がっていくのでしょう。
『躾とは知らないから教える。知っていても教える。繰り返し身につくまで教える』ことです。
本人が世の中に受け入れられるために。
本人のために。
出来るだけ早くから。
昔は個々の家にその家独自の方針、それによっての教えである庭訓(ていきん)がありましたが、最近では「子供はのびのびと もっと大きくなってから」「自主性を重んじて」等という親が少なからず居ます。このような親は最小限「世間に通用する人間を育てる」という義務と大切なわが子に対する子育ての権利を放棄しているといっても過言ではありません。
教えられなくて社会のルールや躾が身につくのでしょうか?自主性なんてチャンチャラおかしい。
「学校が悪い。仲間に引きづられただけだ。うちの子に限って」などと親としての責任を認めようとしません。
子供を育てよい躾をするのは親の『義務』ではなく『権利』と考えたらいかがでしょう。
大切な、大切な我が子のために世の中に受け入れられて、より大きく成長、成功するために知らないことを教え、良いところを伸ばす親の指導が『躾』だと思います。
言い換えれば『躾』とは親の『おしつけ』だということができます。
親の我が子に対する「無償の愛」です。
年少の時から躾の教育をされたほうが身につくのも早いし、人格の形成に役立つようです。
躾についてアラブの諺(ことわざ)に次のような言葉があるそうです。
『子供を躾けるのは堅い岩を削るようなもの、大人を躾けるのは海に荒波を起こすようなもの』
もちろん子育ては「のびのび」も大切です。自主性も段階を踏んで大切です。しかし、今の時代は他家の子供に注意することも誉めることも出来ない時代です。
躾を与えることが出来るのは幼少時の吾が子に対してだけです。その権利と機会を放棄してどうするのですかと私は思います。
子供が成長途中の方、予定のある方、自信を持って「親をおしつけ」ましょう。
そして親の権利と義務を行使しましょう。
そして子育ては「一つ叱って三つ誉め」です。
子供が自分でよい判断、行動をするようになった時、大いに自主性を尊重しましょう。
これは私の感じた意見です。他の意見・考えを妨げるものではありません。
伊豆高原の一隅にて
慈厳合掌
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